昭和57年6月2日 朝の御理解  入力者松本正宏


 御理解第三十七節 「生きておる間は修行中じゃ。ちょうど、学者が年をとっても眼鏡をかけて本を読むようなものであろうぞ。」

 1日のお月次祭のお届け数が三千九百九十五名であった。四千名に5名切れておる。去年は、三千台であった。今月の一月からお1日の月次祭が四千名台である。日々のお届けが、去年は千名前後であったのが、今年は千百名前後である。日々のお届けが。それは何を皆さん物語ると思いますか。これはやはりここの芯である私の信心修行のたわものというと何ですけれどもね、教祖が仰る一生が修行じゃと、そう聞きますと一生苦労が続くかと、修行とは苦労のように皆が思い込んでおる向きがございますけれども、最後に仰っておられる、丁度、学者が年をとってもめがねをかけて本を読むようなものであろうぞいと仰せられてあります。ね。はあ、この年になってから本ば読まんならん、眼鏡かけてまで読まんならんはあ、難儀なことじゃないでしょう。ね。それこそ、いうなら学問にも切りがない、限りがない。その限りがない勉強に取り組むことが学者の命であると同時にそれが楽しみでもあれば私は喜びでもあるだろうと思うですね。いうならば学問が身につくだけではなくて、いうなら、学者には学徳というものがある。学徳が身に付いてその人柄というものが段々自分ながらもありがたいことになって行けれることが楽しみということではなかろうか。教祖様が仰る修行とはそういう修行でなからなければならない。一生が修行じゃと。だからその修行の内容が段々ありがたい尊いものになってくるに従って、これは、いうならば、願わんでもおかげの世界が広がっていくという。去年までは1日千人前後の日々のお届けであり、お月次祭というても三千台であったのが、今年に入って四千台である。ね。日々のお届けは、一千百名前後である。というように自分の信心のいうなら実績のようなものがね、印のようなものが、数字的にも現われてくる。伸びてくる。私は金光教の信心修行というのはね、ただ、いうなら修行さえしておけば良い、修行にはね、伴うてくるものがある。はっきり明らかになってくるようなおかげを頂かなければならない。また、そういう間違いない修行に取り組まなければならないという事であります。
 ね。ただ、苦労さえしておれば良いというのではないです。それは丁度学者が年をとっても眼鏡をかけてでも本を読むようなものであろうぞいと仰せられるように、これは私が思うのですけれどもね、体もこんなに弱ったし、足もこんなに弱って耳も遠なりゃ目もこんなに薄くなったから、もうはよいい加減に隠居してから、ともういうような事はもう本当に夢さらさらに思いません。私は。例えば目がみえんようになってもここの御用だけはさせて頂こうと思うです。これは私のいうならば修行精神というか、その修行に喜びがなからなければ、思えることでも言える事でもないと思うですね。いうならば、学者が眼鏡をかけて本を読むようなそのことに学者冥利を感じるように取次者冥利をいよいよ深く、感じておかげを蒙っていく。そしてそこにはその証のようにいうならば教会のひれいの実績というものがあがっていく。ね。それはやっぱり修行ですから決して楽なことではございません。ね。今度、教祖様のご晩年の頃の御教えというものが、まあ、発表されてくるわけでしょうが、その何か、聞かせて頂いたところに、昨夜もそのことにちょっと触れさせて頂いたことですけれども、ね、どんなに胸をかきむしるような事があっても、ね、それに動じてはならない。もしそれにいいわけをしたりそれに動じたりしておったら、もういうならば相手が人であるとするならば、もう相手と同等だと言う意味のことを言っておられます。ね。
 向こうが腹を立てるようなことを言うたらこっちも腹を立てたらね、もうそれと同じことだと、ね。そこでね、それを辛抱する間はやっぱりそれこそ胸かきむしるような、思いをすることもあろうけれども、ね、それを修行として、いうならば頂いていく内にね、段々同じような事柄でもそれが楽に受けられるようになり、それをお礼を申し上げれるようになってくるというところに私は修行の限りないいうならば、修行の喜びというものがあると思うのです。ね。その喜びが今度はまた本当にその輪を大きくしていくように、形の上におかげがそれに伴うてくる。してみるといよいよ、普通でいうなら胸をかきむしるようなと思われるようなことがある事の神意というか本当のことが分かってくるとお礼を申せる。まあ例えていうと、合楽がたいへん評判が悪い。もう本当に聞くに絶えないようなもうそれこそ、根も葉もないようなと思われるようなことを、まあ今度の佐田先生が教会長信行会にご本部に参りました。その、まあ、グループグループで信心の研修するのに、熊本の先生方が多かったそうです。そりゃもう、熊本の先生方くらい、合楽のことを悪く言う先生はない。まあ、その中にあって、まあいろいろ合楽のことをお話したと申しましたが、それを聞く時に、どうしたら良いじゃろうか、分かりもせんなと私はいっちょん思わんですね。これもいよいよ、熊本の方へ合楽の御比礼が輝くなと思います。してみるとお礼を申上げなければいかんですね。悪口でも教祖が仰っておられます、神のひれいじゃと仰るです。それこそ神様を知っていないから、先を知ってはいないからであって、ね、そういう特に熊本地区に合楽の教会の評判が悪いと聞かせてもろうて、私の心の中にひらめくものはです、いや、また、これは熊本のほうへひれいが輝くなと。してみるとお礼を申上げねばならんということになるでしょうが。それに体験に体験を積んでおりますから、それを思えるのです。ね。一生が修行。はあ一生が修行。そりゃもう苦労し続けなければならんだろうかじゃなくてです、それは丁度学者が年をとっても眼鏡を掛けてでも本を読むように勉強するように、ね、それは苦しいことではないのである。ね。
 今まで知らなかった学問の分野が広がっていく。学徳が身に付いていくことを感じる。ね。それが喜ばしいのである。信心の修行もそうですよ。皆さん。だから皆さんが今頂いておる修行は例えば胸をかきむしるようなこともあろうかもしれませんけれども、そこを辛抱してなら、赤面弁慶になっていいわけすることもいらなければ、相対、それに対してそのどうこうと言うことではない。辛抱。それこそ、生神金光大神を唱えて、辛抱していく内にこういう時には御理念を持ってするならどういう生き方をしなければならんかと研修させて頂きながらそれを受けていっておる内にはです、同じ事柄でもそれが、はあこれは、むしろお礼を申上げねばならんことであった。と気付くようになる。分かるようになる。そこに、いよいよ信心のありがたい世界というものが開けてくる。信心のありがたい世界が心に開けてくるという事はそのまま又、おかげの世界が広がってくると言うことですから、もう二十にも三十にもその有難さが頂けてくるようになるのです。ね。皆さんがこうやって毎朝朝のご祈念に参って修行をなされるその修行が、もう楽しゅうしてありがたいものに段々なってこなければなりません。これは、朝参りだけのことではありません。一時が万事一生が修行である。その修行とは今日皆さんに聞いて頂いたように、ね、学者が眼鏡を掛けて本を読むようなものでなからなければならんという事であります。
                                     どうぞ